はてなブログ旧家の森

名所・旧所情報を中心に文章を展開していきます。

人里と融和した梅林、牛尾梅林

地域のランドマーク的存在の牛尾梅林

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3月上旬の晴天の日の牛尾梅林

 

 

例年2月末〜3月上旬にかけて、梅の花が山肌一面を覆い、かぐわしい梅の香りが一帯にたちこめる牛尾梅林。小高い丘陵地の形をした牛尾山に約5千本、周辺をあわせると約1万3千本にも及ぶ梅が咲き誇ります。集落のある平野部からはよく見え、梅の季節になると鮮やかな煙幕を張ったような素晴らしい風景が展開します。牛尾梅林は梅の実の収穫も盛んで、佐賀県有数の梅の産地でもあります。また平安時代からの由緒ある牛尾神社があり、牛尾梅林は、神社を囲むように発展しています。そんな地域のランドマーク的存在の牛尾梅林について深く探っていきましょう。

見る場所によって趣がある牛尾梅林

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牛尾山の尾根にある梅

牛尾梅林は、白や桃色のコントラストをなす風景や、間近で見る可憐な花びら、迫力のある下からの眺めなど、見る場所によって異なる趣があります。まずは、牛尾山の麓から、山頂や牛尾神社に至る道を進んでみましょう。道の脇に梅林が広がり梅の実栽培用の白い梅の花や、観賞用の桃色の梅の花を楽しめます。道中にはところどころに視界が開けているビューポイントがあり、牛尾山に広がる梅林を味わうことができます。山頂に到着すると、周辺に広がる梅林、そして眼下には農業の盛んな佐賀平野があり、広大な田園地帯が展開しています。また視界の良い日は、遠く雲仙まで望むことができ、雄大なパノラマを楽しめます。春の晴れた日には、ここで一服したくなるような、のどかな雰囲気に包まれる場所です。

 

源氏から信仰された牛尾神社

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牛尾神社拝殿と梛の木

牛尾山の山頂から少し下った所に、牛尾神社があります。牛尾神社は平安時代の初期である西暦796年に、桓武天皇の勅命により、熊野権現を勧請したことにより創建されました。武士が台頭する時代になると、武家の棟梁である源氏は、牛尾神社を深く信仰しました。源義経武蔵坊弁慶が腰旗を奉納し、征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝は、牛尾神社に領地を寄進しています。境内にある梛の木は、源頼朝北条政子が梛の木の下で結ばれたことにちなんで、植えられたそうです。この梛の木の木の葉は、引っ張っても切れずらいため、固い絆で結ばれて縁結びの願いがかなうとされています。

多くの人から信仰される牛尾神社

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牛尾神社の肥前鳥居

江戸時代になると、初代佐賀藩主の鍋島勝茂は、肥前鳥居を寄進しました。この石造りの鳥居は現存しており、佐賀県重要文化財に指定されています。明治時代に入っても、大日本帝国陸海軍の武運長久を願う人々が、武門にゆかりある牛尾神社を参拝するようになります。日清戦争では、清からの戦利品として、清の甲板が奉納されたそうです。規模的には小さな神社ですが、平安時代からある由緒があり、多くの人々からの信仰を受けた神社です。神社・仏閣は、信仰の対象であると同時に、庶民にとってはテーマパークのようなエンターテイメントの場所でもあったので、牛尾神社の参拝とあわせて、牛尾梅林の観梅が有名になっていったと考えても不思議ではありません。

梅の産地として発展する牛尾梅林

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栽培用の梅の白い花

 

牛尾梅林は、古くから梅の実をとるために、栽培が行われていきました。標高80mの小高い牛尾山一帯を、先人たちは梅林として開発していきます。そして江戸時代の末期には、観梅の名所として知られるようになりました。明治時代になると、激戦が続き兵糧の補給が大変だった日露戦争の兵士の栄養食として、漬け梅や、梅酒を送ったそうです。その後も生産農家が増加していき、平成のバブルの頃が最盛期になりました。およそ70~80トンの梅が、梅干し等の加工用として出荷され、佐賀県内有数の梅の産地として不動の地位を占めるようになります。

愛情込めて育てられた梅

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収穫しやすいように剪定された梅

 

現在でも約60万トンの梅の実生産を維持しており、5月中旬から出荷される「日本一早い梅」として高い評価を受けています。梅の実を採るために栽培されている栽培梅は、剪定などがきちんとおこなわれおり、整然としています。梅の花の季節になると、白い花をたくさん咲かせ、白いじゅうたんを広げたようなすばらしい風景になります。栽培梅のエリアでは、梅の実の生育を優先させるために、近くに立ち入ることを控え、できるだけ遠くから梅の花を愛でるようにしてください。牛尾梅林を歩くと、栽培用と観賞用の梅を育成してきた生産農家の方々の長年にわたって培った技術と、梅と対話し、梅を大事にしてきた愛情を感じずにはいられません。

 

春を告げるメジロ

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メジロが蜜を吸う梅の花びら

牛尾梅林では梅の花が咲きほころぶようになると、花の蜜を求めてたくさんのメジロが集まります。小柄な上、とても人に対する警戒が強く、動きが素早いため、じっくりと観察するのは難しいのですが、黄色緑色のメジロは、淡い色をした花の美しさを引き立てます。梅にうぐいすとはよく言いますが、牛尾梅林では、梅にメジロが春の訪れを告げる光景になるようです。

 

人と共生する牛尾梅林

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梅林と民家

 

古くから人々に愛されてきた牛尾梅林。約80mの高低差のあるこの梅林は、牛尾神社がある山頂部分を中心に、梅の実を収穫する栽培用の梅林、そして人々の住む麓の集落まで梅林は伸びています。長い年月を経て梅林と人々の暮らしている集落が、景色の中に溶け込んでいます。人里と梅林の美しい風景ですし、日本の里山の原風景とも言えるのではないでしょうか。みなさんも牛尾梅林に訪れてみて、梅林のもたらす豊かな自然を満喫してみてはいかがでしょうか。

 

梅を愛で、梅に浸る みやま市山川町のお座敷梅

豪華な梅の花の観賞会

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例年1月下旬から3月上旬に開催される山川町のお座敷梅

農業が盛んで、山川みかんや竹の子の産地として有名な福岡県南部に位置する、みやま市山川町。この山川町は、盆栽梅の西日本最大の産地としても有名で、梅の花が開花する時期になると、お座敷梅を開催します。お座敷梅とはその名の通りお座敷に梅を飾ったユニークでかつ贅沢な芸術です。盆栽梅を日本家屋の部屋一面に並べると、その美しさに圧倒され、古き良き日本の伝統に酔いしれます。屋内の展示ですので、雨の日でも心置きなく観賞できるところも嬉しいです。例年1月下旬~3月上旬になると、鉢植えの豪華な梅の花を見ようと、日本全国からたくさんの観光客が訪れ、辺りはすがすがしい梅の香りに包まれます。今回は、山川町のお座敷梅として有名な青輝園と梅花園をご紹介します。そして、梅の桃源郷とも言えるような光景を生み出している盆栽梅の魅力に迫っていきましょう。

 

 

梅花園

①先祖代々から培われた高い栽培技術

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梅花園のお座敷梅

約200鉢の梅の盆栽がお座敷に並び、庭にある大きなしだれ梅が、訪れた人を魅了する梅花園。先祖代々から盆栽梅と五葉松を生業とし、高い栽培技術で、種の段階から丹精込めて育ててきた作品を展示・販売しています。梅の他にも、農林水産大臣賞を受賞した樹齢80~230年の五葉松の盆栽を、約300鉢も保有しています。梅花園の作品には、凛々しく力強い生命力が感じられ、とても見ごたえがあります。

 

②圧倒される大きなしだれ梅

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梅花園の見事なしだれ梅

梅花園に入園すると、お座敷梅のある日本家屋の目の前にある庭に、樹齢約150年もする大きなしだれ梅があります。高さ約5.5m、枝張り約10mもの大きさがあり、満開の時に見る梅は、空から梅の花が降ってくるような感覚になります。たとえるなら数万発の花火が一斉に打ち上げられたような圧倒される美しさが、そこには存在します。

 

③盆栽梅が共演する日本家屋

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生命力あふれる梅花園の盆栽梅

お座敷梅のある日本家屋に入ると部屋中に梅の花の良い香りが充満しており、100畳敷のお座敷いっぱいに飾られた赤・白・ピンクと色とりどりの梅たちがそれぞれの美しさを共演します。お座敷梅はもともと梅花園の母屋に置いていたのですが、盆栽の梅が成長するにつれ、母屋では手狭になったため、新たに観梅用の施設を建設することになりました。古くから日本人が愛でてきた梅と新たに造られた観梅用の日本家屋。純和風のテイストがとてもマッチした景観となっています。お座敷には、大小さまざまな盆栽梅が展示されていますが、作品を傷めないように細心の注意を払って配置されています。特に高さ2m以上・重さ約250kgの盆梅は、搬入に6人を要するなど大変な労力を要します。元来、地中に根をはっている梅の木をまるごとお座敷に持っていくわけですから、並々ならぬ生命の迫力を感じます。

青輝園

①200年以上の歴史を誇る青輝園

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青輝園のお座敷に飾られた梅と松

 

青輝園は、約2000坪の敷地に2m以上の巨木や樹齢数百年の盆栽梅、五葉松などの巨大盆栽が多数あります。江戸時代に立花藩の庭師を務めており、200年以上の歴史を誇ります。全国的に珍しく平安時代からあったとも言われる古代紅鶯宿や数百品種の梅を保有しています。青輝園は、多品種で他用途にわたる梅を展示・販売しており、さながら梅の持つさまざまな可能性を、提案する総合商社のような感じがします。

 

②昭和37年から続く一般公開

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紅白の梅の共演

 

梅が開花する例年1月下旬~3月上旬に、青輝園では「御座敷梅梅林観梅会」と銘打ちましてお座敷梅が一般公開されます。江戸時代から楽しまれてきたお座敷梅ですが、大がかりなお座敷梅の一般公開が始まったのは、昭和37年に青輝園が始めてからになります。現在では、お座敷に樹齢60~300年の盆栽の梅約200鉢を展示しています。

 

③盆栽梅と古民家が醸し出す景観

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盆栽が古民家いっぱいに飾られる

さまざまな特徴のある盆栽梅を運ぶのは至難の技ですが、青輝園は新聞社の取材に対して、「室内においたほうが天候の影響を受けにくいため、鮮やかな色が長く持つ」と述べていまして、梅に対する並々ならね愛情が感じられます。昭和初期に建てられたレトロ感漂う古民家の座敷に、長い年月を経た趣のある盆栽梅。青輝園独特の景観を味わってみてはいかがでしょうか。

 

④五葉松やユリでも有名な青輝園

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樹齢約250年の五葉松「青龍」

青輝園の入口には樹齢250年の「青龍」という名前の五葉松の盆栽があります。壮大な龍を思い起こさせるほどの豪快さがあり、龍が天に舞い上がりそうな感覚になる盆栽です。他にもたくさんの五葉松の盆栽がありますので、ゆっくりご覧になってはいかがでしょうか。青輝園は、ユリの栽培でも有名で、自然界で絶滅寸前という世界最大の花弁を持つサクユリをはじめ、数十種約4000本ものユリを保有しており、見頃の夏になると、可憐なユリの花が咲き乱れます。

行ってみて、自然美の良さを感じでみましょう

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天に向かって燃え上がる梅

福岡県みやま市山川町のお座敷梅として、梅花園と青輝園を、取りあげてきましたが、両園とも隣接しているので見学がしやすい環境にあります。また、この2つの園は兄弟で経営しており、昔からの伝統を受け継いだそれぞれの良さがにじみ出る盆栽を展示しています。文章では伝えられない、作品からにじみ出る良さがありますので、是非、行ってみて自然美を感じ取ってみてください。

 

 

古木の梅を見て日中友好を思う  宮崎兄弟の生家

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宮崎兄弟の生家と樹齢250年の梅


樹齢250年の友情の梅の木

熊本県荒尾市にある宮崎兄弟の生家の梅は、例年2月上旬に咲き始め、2月中旬に見頃を迎えます。樹齢250年の古木ですが、現在でも毎年きれいな白い花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。宮崎兄弟と孫文の交流を見守ってきたこの古い梅の木は、令和の世の現在、友情の梅の木として、親しまれています。宮崎兄弟は明治から大正時代にかけて、思想家・革命家として活躍しました。兄弟4人がお互いに影響しあって志を抱き、自由民権運動や中国の辛亥革命に影響を及ぼしました。今回は宮崎兄弟とその父政賢、そして現存している宮崎兄弟の生家について触れ、宮崎兄弟が築いた日中友好の歴史について考えてみましょう。

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南側の門から伸びるまっすぐな道

武道場のような家で育った宮崎兄弟

宮崎兄弟の育った宮崎家は江戸時代、肥後藩玉名郡内の諸役を務める郷士の家柄で、現在の荒尾市の中心部を保有する大変な土地持ちでした。兄弟の父である政賢は、若い頃から学問や剣術、居合、砲術、軍学などを学び、江戸へ半年間武者修行に行ったこともある人物です。三池藩の干拓事業に関与したり、大火事の後始末を引き受けた結果、宮崎家の経済は困窮したそうです。また、子供への教育も熱心で、家はさながら文武道場のようでありました。宮崎兄弟は、そういった父親と家庭環境の下、世の中を良くしたいという純粋な志を育みながら成長していきました。

 

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玉名郡の有力郷士であった宮崎家の敷地

玉名郡の有力郷士、宮崎家

宮崎兄弟の生家は、立派な門構えの入り口や茅葺屋根の生家や現在資料館となっている蔵、樹齢250年の梅の木をはじめ、5月には黄色い可憐な花を咲かせる菩提樹がある庭があります。資料館では、玉名郡という地域で大きな影響力をもった郷士の家に生まれた宮崎兄弟が、日本、そして中国を舞台に活躍していく様子が展示されています。

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やわらかな日が差し込む宮崎兄弟の生家

非業の死を遂げた宮崎八郎

宮崎八郎は、父政賢の次男として生まれましたが、長男が幼くして亡くなったため長兄的存在でした。肥後藩の藩校「時習館」で学び、第一次長州征伐では、肥後藩郷士として父政賢とともに出陣しています。明治維新後は上京し、中江兆民らとともに自由民権運動を展開します。明治10年の西南戦争では西郷隆盛に共鳴し「熊本協同隊」を率いて政府軍と戦いますが、八代の戦場で戦死します。26歳の若さでした。戦死の知らせを受けた父政賢は、号泣し家の者に「今後一生官の飯なぞ食ってはならない」と厳命したそうです。その政賢も、八郎の死から2年後の明治12年に脳溢血で死去します。

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宮崎兄弟の生家の白梅

宮崎家当主として弟たちを支える宮崎民蔵

精神的支柱とも言える父・政賢と、兄・八郎を失った宮崎家でしたが、残った3兄弟は、父や兄を精神的原点とし、それぞれの志を抱くようになりました。八郎の死後、宮崎家の当主となった民蔵は、農村の貧しさを見て土地の平均再分配を目指すために、土地復権同志会を設立します。しかしその思想を危険視した政府は、民蔵たちを弾圧しました。辛亥革命後は中国に渡り、革命を支援するなど、弟である彌蔵、寅蔵の活動を大所・高所から支えました。

 

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孫文と宮崎4兄弟の顔写真が展示されている

中国での革命活動に動く宮崎兄弟

宮崎彌蔵は4兄弟屈指の思想家で、中国の清朝を倒す民権革命を起こし、欧米列強の侵略に対抗する拠点を全アジアに広げるといった計画を持っていました。彌蔵の思想は弟の寅蔵に大きな影響を与え、後に寅蔵が、中国での革命活動を展開するきっかけとなりました。宮崎寅蔵(滔天)は、中国の革命が成功するように尽力した人物です。父や兄たちの影響を受けて育った寅蔵は、様々な活動を経て、中国での革命思想に傾倒していきます。そして共和主義、アジア諸国を苦しめるにする列強への憤り、人類同胞思想など、孫文の思想と合致していることが認識できた寅蔵は、孫文の絶対的支持者として活躍します。犬養毅など、孫文を支援した日本人はたくさんいますが、生涯かけて孫文を支持した人物は少ないのではないでしょうか。

 

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左:宮崎寅蔵 中央:槌(寅蔵の妻)  右:孫文

宮崎兄弟の生家を訪れている孫文

孫文は亡命中の明治30年と、辛亥革命後の大正2年の2度、荒尾の宮崎兄弟の生家を訪れています。宮崎家の当主だった民蔵は、亡命中の孫文をこの家に迎え入れ、約2週間滞在しました。民蔵の蔵書には、彼が活動していた「土地復権論」に関わる書物が多数あり、滞在中の孫文は、この書物を読むことに没頭したそうです。この2週間は、宮崎兄弟と孫文にとって、濃密で有益な期間だったのではないでしょうか。辛亥革命革命後は、革命成功のお礼で宮崎兄弟の生家を訪れています。

 

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友情の梅の木

古木の梅に込められた日中友好の願い

宮崎家は菅原道真を遠祖としており、生家にある樹齢250年の梅の木は、先祖が道真ゆかりの大宰府から移植したと伝わる古木です。臥龍梅に似たような趣のあるこの梅は、孫文がこの家を訪れた時に、記念撮影の背景とされています。荒尾市では辛亥革命百周年事業の一環として、この木から接ぎ木し育てた苗木を各地に配布しています。これらの苗木が、日中友好の象徴として、世の中に広まることを願いたいものです。

 

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宮崎兄弟の生家にある蔵

生活は困窮しながらも、志を貫く

宮崎家は、たくさんの土地や財産を持つ有力郷士でしたが、革命活動にたくさんの私財を投入したため、生活は困窮を極めました。寅蔵の妻である槌は、石炭販売や、牛乳屋、ミシン内職などをして一家を支えましたが、ついに財産を使い果たしてしまい、宮崎兄弟の生家は、他人の手に渡ってしまいました。宮崎兄弟と友好的であった中華民国から、買い戻しの資金を提供されたこともありましたが、最終的には荒尾市が買い戻し、歴史的施設として一般公開されることになりました。そして、宮崎兄弟の生家は、孫文を慕う中国や台湾の人々にとっては、孫文ゆかりの地として大切な場所になり、日本国内外から多くの来訪者を受ける観光地となりました。

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茅葺屋根は、平成22年に修復工事が行われている

宮崎兄弟の生家を訪れてみましょう

幕末の反骨精神あふれる郷士の家で育った宮崎兄弟は、それぞれが大志を抱きます。とても純粋な気持ちで、自分たちの理想を追い求め、孫文を支え、辛亥革命の成功に貢献しました。欧米列強諸国が、植民地化政策を進めていた頃、中国やアジア諸国自治独立に奔走した日本人が数多くいました。彼らは、アジア諸国の植民地解放と民族自決による共存共栄を理想としていました。この理想は、国際紛争の絶えない21世紀を生きる我々にも、大切なものではないかと思います。梅や牡丹の名所でもある宮崎兄弟の生家に訪れ、宮崎兄弟に想いを馳せ、日中友好、さらに世界平和について考えてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の長大橋建設の原点、西海橋

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右奥:西海橋 左手前:新西海橋



東洋一の規模を誇った西海橋


西海橋は、長崎県佐世保市針尾島西海市西彼町の間にかかる針尾瀬戸にかかるアーチ橋として昭和30年に完成しました。完成した当時は、東洋一そして世界第三位の規模を誇り、最先端の技術を結集させた橋となりました。西海橋建設で培った架橋技術は、後の関門橋や瀬戸大橋の建設にも生かされ、世界最大級の規模を実現する我が国の戦後最大の出発点として「技術的に優秀なもの」「歴史的価値の高いもの」として令和2年12月には国指定文化財に指定されました。平成18年には、新西海橋が開通し、2つの橋で地元の交通を支えることなりました。今回は西海橋について掘り下げていきます。

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急流とうず潮針尾瀬戸を突っ走る小型ボート

住民からの架橋の要望が高まる

 

西海橋が架かる針尾瀬戸は、四方を陸地に囲まれた大村湾と外洋の東シナ海がつながっている海峡です。大村湾と外洋の潮の落差によって、急流とたくさんのうず潮が発生します。西海橋が完成する前の針尾瀬戸の交通手段は船舶でしたが、急流やうず潮がある海峡の航行は難易度が高く、また危険が伴いました。そのため住民から針尾瀬戸に橋を架けてほしいとの要望が強まり、昭和25年に橋の建設に取り掛かります。まだ戦後間もない頃だったこともあり、資材不足に悩まされながらも、昭和30年に完成しました。

 

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日本初の海峡横断橋の西海橋

 

観光名所となった西海橋

 

日本で初めて海峡横断橋として開通した西海橋。アーチの上に道路がある橋で、鋼上路ブレースド・リブアーチという構造形式で、全長316m、海からの高さは、およそ42mあります。針尾瀬戸うず潮の上に掛けられた長大橋は、開通当初から観光名所として賑わい、観光振興や地域振興に大きく貢献しました。

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現在も幹線道路の役割を担う西海橋

 

幹線道路としての役割が強まる

 

西海橋の完成当初は、橋の建設費用の債務を返済するために通行料を取っていました。観光や地域間の交通需要が西海橋には多くあり、高度経済成長による後押しもあって、通行料収入による債務返済は順調な推移を維持していきます。そして完成から15年後の昭和45年には全額償還を果たし、通行料が無料になりました。無料となった後は、長崎県北部と南部を結ぶ幹線道路としての役割が強くなり、西海橋の通行量は、増加しました。

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右側:新西海橋 左側:西海橋

新西海橋建設へ

 

西海橋モータリゼーションの影響もあって、通行量は年々増加していき、橋を通る国道202号線は、慢性的な渋滞に悩まされることになりました。そのため国道202号線の渋滞のボトルネックとなっている西海橋のバイパスルートとして、新西海橋が建設されることになりました。

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鋼中路ブレーズド・リブアーチと呼ばれる構造の新西海橋

 

高規格道路に対応しうる構造

 

平成18年に完成した新西海橋は、鋼中路ブレーズド・リブアーチと呼ばれる構造で、アーチのの中間に道路がある独特の美しいアーチ線形を描いた橋です。全長620mで、幅員が20.2mあり、4車線の高規格道路として供用されました。国道202号線のバイパスルートとして、長崎県佐世保市西海市を結ぶ「西海パールライン」として開通し、新西海橋を含む一部区間が有料となっています。新西海橋が完成したことで、観光名所としての魅力が高まり、交通量が増加した幹線道路の需要に対応しうるインフラが誕生しました。

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新西海橋の自動車専用道路の下にある歩道

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新西海橋の歩道で、うず潮見学

 

「西海パールライン」は自動車専用道路ですが、新西海橋の自動車専用の道路の下に歩道が架設されています。歩道の中心部分には、床に四つのガラス張りの窓が設けられ、新西海橋の高さを感じながら、うず潮や潮の流れを観察できます。大村湾の海水が干潮のときに、見る潮の様子は壮観で、特に春と秋の大潮は、大村湾と外洋の落差が大きくなり、旧暦3月3日の大潮によって生まれるうず潮は「節句潮」と呼ばれています。その頃の西海橋公園は、公園の桜の季節と重なることもあり、訪れる人の目を楽しませます。

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西海橋の歩道から見た眺め

回遊性のある散策ルート

 

新西海橋の歩道を渡って、帰りは西海橋の道路脇の歩道を歩くというふうに、歩いて周回することができます。周回コースには西海橋新西海橋針尾瀬戸はもちろん、弁天島や針尾送信所の電波塔を望むことができます。西海橋佐世保市側、西海市側の両方にまたがって西海橋公園があり、佐世保側には真下から西海橋を見上げ、潮の流れを真近で見ることができる潮見公園があるので、散策してみるとよいでしょう。

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新西海橋の骨組みと西海橋

 

西海橋新西海橋の二つのアーチ橋。どちらも美しい橋ですが、とても対照的な橋です。西海橋は、戦後の資材不足に悩まされていたこともあり新西海橋に比べると華奢な造りです。一方の新西海橋は筋骨隆々のたくましい造りとなったいるのですが、どちらも強度には十分に配慮した設計となっています。西海橋の設計は、少ない鋼材で、いかに強度とデザインの美しさを両立させるかがテーマでした。西海橋で得た実績は後の海上に架けられる長大橋の建設に生かされ、平成18年に完成した新西海橋にも生かされています。皆さんも西海橋に訪れてみて、針尾瀬戸の美しい風景を楽しみ、機能美に富んだ西海橋を見学してみてはいかがでしょうか。

旧日本海軍の遺産、針尾送信所


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遠方から針尾送信所の電波塔を望む

    圧倒的な存在感のある3本の電波塔

ハウステンボスから西海橋方面へ車を10分ほど走らせた長崎県佐世保市の針尾地区に、高さ136mもある3本の塔の電波塔が立っています。みかん畑が多く自然豊かなこの場所に、圧倒的な存在感を見せているこの塔は、「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」といい、大正7年から4年の歳月を費やし建設されました。当時の最新技術を駆使して、現在の金額に換算すると250億円ほどの総工費をかけて建設された長波送信施設は、現在においても高さ・古さともに日本一を誇っています。今回は、そんな針尾送信所について深く掘り下げてみましょう。

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西海橋公園から針尾送信所を望む

 

          水運とトロッコ建設で資材搬入

 

日露戦争を経験した旧日本海軍は、無線通信の重要性を認識し、日本周辺の通信網を整備するために、千葉県の船橋と台湾の高雄、そして佐世保の3か所に無線局を建設しました。建設当時は、佐世保の針尾地区には大きな道路や鉄道がなく、資材は船舶によって運ばれました。そして建設現場近くの小鯛部落の海岸に荷卸しして、急こう配の坂道に作ったトロッコで、を引き上げる方式で建設が進んでいきました。

 

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コンクリート製の巨大電波塔

当時の最高水準の鉄筋コンクリート技術を駆使した電波塔


当時の日本海軍は、長距離無線通信には「長波」が適していると考えられていたそうです。そのため針尾送信所には、長波の電波塔が建設されました。強力な電波である長波は、長いアンテナでなければ、遠くまで飛ばせなかったため、高い塔が必要でした。そのため建設された大正時代における最高水準の鉄筋コンクリート技術を駆使して、高さ136mもある巨大な電波塔を完成させました。昭和29年名古屋電波塔が出来るまで日本一の電波塔でした。ちなみに千葉ポートタワーが131m、京都タワーが131mですから、現在でも、日本有数の高さを保持する建築物だと言えます。

 

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電波塔の内部

   丹精込められてつくられた頑丈な造り

 

完成してから100年たつ針尾送信所ですが、劣化が少なく、現在の耐震基準をクリアしています。長崎大学工学部の岡林隆敏教授は、「補修は必要になるが、まだまだ倒壊の危険はない。」と太鼓判を押しています。電波塔下部の直径は12mあり、地下には深さ6m、直径24mの基礎が築かれています。巨大な電波塔を支える立派な基礎です。内部の地上部分から頂上部分を見るあげると鉄骨が井桁に組まれています。途中に開いている小さな窓は、採光と換気の役割があります。頂上まで登るには壁面につけられたはしごを使います。完成後のメンテナンスにも十分配慮した構造です。建物は長方形の細長いコンクリートの板が、積み重なった鉄筋コンクリート造りです。大正時代は作業機械がなく、人の力による作業が多くありました。大変な労力を使って完成した電波塔には、建設に関わった人々の丹精が込められていると感じられる場所が、随所にあります。

 

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針尾送信所の電信室


  電信室も現存している歴史的価値の高い建造物

 

3本の電波塔は、一辺300mの正三角形配置されていて、その中心に半地下式の電信室と呼ばれる鉄筋コンクリート造の通信施設が築かれました。正面と背面を石張で仕上げ、内部には通信業務を担う発電機室や送受信機室などが設けられています。戦前につくられた国内施設で、無線塔と電信室の両方が現存しているのは、針尾送信所だけです。大正時代における最高水準のコンクリート技術を示すものとして、歴史的価値が高く、国の重要文化財に指定されています。

 

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地上部分から電波塔を見上げる

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  広範囲に展開する海軍部隊の通信に使用

 

日本海佐世保鎮守府の無線送信所として大正11年に完成した針尾送信所。高さ136mの電波塔は、1850km先まで電波を飛ばすことができ、中国大陸、東南アジア、南太平洋に展開する海軍部隊、艦隊との通信に使用されました。太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃を指令する「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号文を送信した電波塔の1つとも言われますが、詳細は不明です。太平洋戦争末期、日本各地で米軍による空襲が激化しましたが、空襲を受けることなく終戦を迎えました。空襲を受けなかった理由は諸説ありますが、日本軍の暗号文はすでに米軍に解読されていたため、攻撃する必要がなかったのではないかという説が有力のようです。

 

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戦後に建設された海上保安庁の建物

  戦後は海上保安庁に移管

戦後は米軍に接収されましたが、昭和23年から海上保安庁第七管区海上保安本部の管轄となりました。米軍による空襲の被害がなく、歳月の経過による劣化も少なかった電波塔は、平成9年まで使用されました。現在は旧日本海軍時代に比べると格段と小さい鉄塔が建てられており、その役割を担っています。両施設を見ていると、時代の経過によるテクノロジーの変化を、感じることができます。

 

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電信室と電波塔

  針尾送信所に訪れてみましょう

大正時代に造られた針尾送信所の施設はその役割を終え、現在は針尾無線塔保存会が管理していて、見学に訪れた人に同行してガイドしています。国会議事堂など、戦災を免れて現存している公共の建造物はありますが、戦争を遂行した旧日本軍の軍事施設の大半は米軍に破壊されてしまい、現存していません。旧日本軍の遺産で、針尾送信所ほど大規模に、劣化されずに残っているものはありません。みなさんも是非訪れてみて、当時の最高技術を味わったり、平和の尊さを感じたりしてみてはいかがでしょうか。