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旧日本海軍の遺産、針尾送信所


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遠方から針尾送信所の電波塔を望む

    圧倒的な存在感のある3本の電波塔

ハウステンボスから西海橋方面へ車を10分ほど走らせた長崎県佐世保市の針尾地区に、高さ136mもある3本の塔の電波塔が立っています。みかん畑が多く自然豊かなこの場所に、圧倒的な存在感を見せているこの塔は、「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」といい、大正7年から4年の歳月を費やし建設されました。当時の最新技術を駆使して、現在の金額に換算すると250億円ほどの総工費をかけて建設された長波送信施設は、現在においても高さ・古さともに日本一を誇っています。今回は、そんな針尾送信所について深く掘り下げてみましょう。

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西海橋公園から針尾送信所を望む

 

          水運とトロッコ建設で資材搬入

 

日露戦争を経験した旧日本海軍は、無線通信の重要性を認識し、日本周辺の通信網を整備するために、千葉県の船橋と台湾の高雄、そして佐世保の3か所に無線局を建設しました。建設当時は、佐世保の針尾地区には大きな道路や鉄道がなく、資材は船舶によって運ばれました。そして建設現場近くの小鯛部落の海岸に荷卸しして、急こう配の坂道に作ったトロッコで、を引き上げる方式で建設が進んでいきました。

 

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コンクリート製の巨大電波塔

当時の最高水準の鉄筋コンクリート技術を駆使した電波塔


当時の日本海軍は、長距離無線通信には「長波」が適していると考えられていたそうです。そのため針尾送信所には、長波の電波塔が建設されました。強力な電波である長波は、長いアンテナでなければ、遠くまで飛ばせなかったため、高い塔が必要でした。そのため建設された大正時代における最高水準の鉄筋コンクリート技術を駆使して、高さ136mもある巨大な電波塔を完成させました。昭和29年名古屋電波塔が出来るまで日本一の電波塔でした。ちなみに千葉ポートタワーが131m、京都タワーが131mですから、現在でも、日本有数の高さを保持する建築物だと言えます。

 

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電波塔の内部

   丹精込められてつくられた頑丈な造り

 

完成してから100年たつ針尾送信所ですが、劣化が少なく、現在の耐震基準をクリアしています。長崎大学工学部の岡林隆敏教授は、「補修は必要になるが、まだまだ倒壊の危険はない。」と太鼓判を押しています。電波塔下部の直径は12mあり、地下には深さ6m、直径24mの基礎が築かれています。巨大な電波塔を支える立派な基礎です。内部の地上部分から頂上部分を見るあげると鉄骨が井桁に組まれています。途中に開いている小さな窓は、採光と換気の役割があります。頂上まで登るには壁面につけられたはしごを使います。完成後のメンテナンスにも十分配慮した構造です。建物は長方形の細長いコンクリートの板が、積み重なった鉄筋コンクリート造りです。大正時代は作業機械がなく、人の力による作業が多くありました。大変な労力を使って完成した電波塔には、建設に関わった人々の丹精が込められていると感じられる場所が、随所にあります。

 

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針尾送信所の電信室


  電信室も現存している歴史的価値の高い建造物

 

3本の電波塔は、一辺300mの正三角形配置されていて、その中心に半地下式の電信室と呼ばれる鉄筋コンクリート造の通信施設が築かれました。正面と背面を石張で仕上げ、内部には通信業務を担う発電機室や送受信機室などが設けられています。戦前につくられた国内施設で、無線塔と電信室の両方が現存しているのは、針尾送信所だけです。大正時代における最高水準のコンクリート技術を示すものとして、歴史的価値が高く、国の重要文化財に指定されています。

 

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地上部分から電波塔を見上げる

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  広範囲に展開する海軍部隊の通信に使用

 

日本海佐世保鎮守府の無線送信所として大正11年に完成した針尾送信所。高さ136mの電波塔は、1850km先まで電波を飛ばすことができ、中国大陸、東南アジア、南太平洋に展開する海軍部隊、艦隊との通信に使用されました。太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃を指令する「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号文を送信した電波塔の1つとも言われますが、詳細は不明です。太平洋戦争末期、日本各地で米軍による空襲が激化しましたが、空襲を受けることなく終戦を迎えました。空襲を受けなかった理由は諸説ありますが、日本軍の暗号文はすでに米軍に解読されていたため、攻撃する必要がなかったのではないかという説が有力のようです。

 

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戦後に建設された海上保安庁の建物

  戦後は海上保安庁に移管

戦後は米軍に接収されましたが、昭和23年から海上保安庁第七管区海上保安本部の管轄となりました。米軍による空襲の被害がなく、歳月の経過による劣化も少なかった電波塔は、平成9年まで使用されました。現在は旧日本海軍時代に比べると格段と小さい鉄塔が建てられており、その役割を担っています。両施設を見ていると、時代の経過によるテクノロジーの変化を、感じることができます。

 

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電信室と電波塔

  針尾送信所に訪れてみましょう

大正時代に造られた針尾送信所の施設はその役割を終え、現在は針尾無線塔保存会が管理していて、見学に訪れた人に同行してガイドしています。国会議事堂など、戦災を免れて現存している公共の建造物はありますが、戦争を遂行した旧日本軍の軍事施設の大半は米軍に破壊されてしまい、現存していません。旧日本軍の遺産で、針尾送信所ほど大規模に、劣化されずに残っているものはありません。みなさんも是非訪れてみて、当時の最高技術を味わったり、平和の尊さを感じたりしてみてはいかがでしょうか。